写真のようなお茶碗を、志野(しの)茶碗といいます。
白い釉薬(ゆうやく)がたっぷりとかけられ、
手づくりの、あたたかい表情をしています。
表面には、柚子(ゆず)のような
細かい凹凸があります。
また、独特の「ひいろ」(緋色・火色)が、
おもしろい模様を浮かび上がらせています。
両手で包みこむようにしてもち、こころ静かに
「御薄」(おうす)を楽しみたいものです。
志野茶碗は、現代の茶の湯で、とくに好まれる
お茶碗の一つといえます。
今回は、茶碗や、皿、花器など、
やきもの(陶芸作品)を鑑賞します。
ご覧いただいているのは、1994年に、
重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された
鈴木 藏(すずきおさむ)さんの作品です。
鈴木 藏さんは、岐阜県の「多治見市」在住の陶芸作家です。
岐阜県
(黄色い部分)
「多治見市」は、岐阜県の南端に位置し、
むかし、「美濃」と呼ばれていた地域の一部です。
多治見市では、土岐市、瑞浪市、可児市などとともに、
古くから、やきものの産地として有名です。
美濃地方のやきものには、いろんな謎(なぞ)があるようです。
まず歴史から調べてみましょう。
美濃焼の歴史(1)
縄文時代
美濃地方の縄文時代の遺跡からは、
数多くの土器が発見されています。
「宮之脇遺跡」(可児市)から出土した縄文土器
(写真:可児郷土資料館)
(1)
岐阜県で見つかった、縄文土器の中には、
北陸、信州、関東、東海、西日本など、
ほかの地域の特徴をもったものがたくさんあります。
これは、なぜでしょうか?
岐阜県(飛騨・東濃)地方の縄文遺跡
(資料:多治見市文化財保護センター)
ほかの地域と同じ特徴の土器が出土するのは、
縄文土器が、当時、運搬されていたか、
土器をつくる人が移動していたことを示しています。
縄文時代とは、1万2000年前〜2400年前の大昔です。
しかし、当時から、この地方では、おそらく狩猟のために
多くの人々が、ダイナミックに移動していたようです。
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美濃焼の歴史(2)
奈良時代
さて、5世紀の中頃になって、
朝鮮半島の「百済」(くだら)から、新しい技術が導入され、
日本のやきものは、大きく変化します。
新しいやきものは、「須恵器」(すえき)と呼ばれました。
窯(かま)をつかったので、焼成温度が高く、
丈夫なものができるようになりました。
また、轆轤(ろくろ)をつかったため、造形技術も向上しました。
まだ、釉薬(ゆうやく)はつかわれていませんが、
窯の中の灰が自然にかかって、
表面が釉薬状になったものも見られます。
須恵器の一例
(写真:「日本のやきもの8 瀬戸」淡交社より)
(2)
奈良の「平城京」の遺跡から発見された須恵器の中に、
「美濃」と押印されたものがあります。
これは、なぜでしょうか?
美濃の押印
(写真:「美濃古陶」大阪市立美術館ほか)
奈良の「平城京」の遺跡から発見された須恵器の中で、
「美濃」と押印されたものは、
素地もよく、焼成も良好で、
独特の灰が降りかかっていたということです。
奈良時代から、美濃地方の須恵器は、
評判がよく、たくさん流通していたようです。
美濃地方には、やきものにつかう
いい土があることを、昔の人も知っていたのですね。
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美濃焼の歴史(3)
平安時代
平安時代になると、
「白瓷」(しらし)と呼ばれるやきものが、
この地方で、つくられるようになりました。
やきものの表面には、
「灰釉」(かいゆう)と呼ばれる釉薬が、刷毛で塗られました。
「灰釉」(かいゆう)は、木の灰などでつくられたようです。
美濃地方の「白瓷」(しらし)は、
当時、北海道を除く、日本全国でつかわれました。
また、多治見市内にある、虎渓山(こけいざん)の窯跡からは、
緑色の釉薬がかけられた陶片が発見されています。
そして、平安時代の後期になると、
「山茶碗」(やまちゃわん)という、無釉のやきものがつくられました。
「山茶碗」の一例
(写真:岐阜県陶磁資料館)
「山茶碗」は、おもに、お碗と、お皿が中心です。
美濃地方では、鎌倉時代に入ってからも、
山茶碗は、大量に生産されました。
鎌倉〜室町時代
ところで、やきもののことを「せともの」ともいいます。
「せと」とは、現在の愛知県瀬戸市にあたり、
美濃の南に隣接しています。
この地では、鎌倉時代に入ってから、
本格的な陶器生産が始まりました。
(3)
「瀬戸」は「六古窯」の一つに数えられています。
さて、鎌倉から室町時代にかけて、
瀬戸は隆盛を誇りましたが、
美濃地方のやきものは、どうなっていたのでしょうか?
鎌倉時代の「六古窯」
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「瀬戸」では、「猿投山」(さなげやま)を中心とする
たくさんの窯で、生活用具、仏教祭具などがつくられました。
灰釉(かいゆう)だけでなく、
飴釉(あめゆう)を施す方法も発見されました。
「瀬戸」の陶工たちは、多種多様のはなやかな高級品を、
造形にも工夫をこらしながら、精力的につくったといえます。
一方、お碗やお皿を、
質よりも量といった感じでつくっていた
「美濃」のやきものには、造形的にも、技術的にも、
あまり見るべきものがなかったという説があります。
ただ、室町時代の美濃地方は、
室町幕府と密接な繋がりがあった「土岐氏」によって支配され、
文化水準はとても高かったといわれています。
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その後、戦国時代から安土桃山時代へと、世の中が急変してゆく中で、
「美濃焼」は大きく変貌をとげます。
まず、「瀬戸」の数多くの陶工たちが、戦乱を避けて、
山を越え、谷をわたって「美濃路」に移ってきました。
そして、ある人物の登場によって、
「美濃焼」は華やかに開花します。